2011年6月26日日曜日

文明とは正義のひろく行われることである(西郷隆盛)

西郷隆盛氏は、「敬天愛人」を座右の銘としていた。私の理解では、「敬天」は「公(天)のために行動せよ」の意、「愛人」は「自分を愛するように人を愛せ」の意である。

この思想の下に発せられた西郷氏の言葉を紹介する。

「文明とは正義のひろく行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」(内村鑑三氏著(鈴木範久氏訳)「代表的日本人」より)

まるで現代の日本人を叱責しているかのようだ。

「天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めてもおごらない」(同上)

天の道(世のため、公のため)ならば、周囲にいかに批判されようともやり通す。周囲に褒められても決して傲慢にならない。

「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ」(同上)

天すなわち「公」のために働け。

「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある」(同上)

まさに克己/無私の精神。西郷氏は、特に「自己愛=利己主義」に批判的だったようだ。

「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である」(同上)

無私無欲の者こそ、本当の人生の友であり、国を動かすことが出来る人物だ。

「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる」(同上)

外交交渉の基本精神(私流で言えば、日本の尊厳ある自主独立である)。いや、国家存続よりも正義を重視するという哲学はそれを凌駕している。このようなことを考えられる大人物は現代の日本にいるのか。

「とにかく国家の名誉が損なわれるならば、たとえ国家の存在が危うくなろうとも、政府は正義と大義の道にしたがうのが明らかな本務である。・・・戦争という言葉におびえ、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない」(同上)

日本(特に戦後の日本)は、国益ばかりに執着せず「正義」を世界に発信してきたか。西郷氏の定義によれば、日本政府は「商法支配所」なのではないか。

形式とは平凡人のためにある(ナポレオン)

ナポレオンは、天才とは「おのが世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である」とし、そのあり方について、こう言った。
「天才が形式の下におめおめおしつぶされると思うのは、天才の歩みによほど縁のない人の考えである。形式は平凡人のためにつくられたものなのだ。平凡人が規則の枠内でしか動けないというのはそれでよろしい。有能の士はどんな足枷をはめられていようとも飛躍する(大塚幸男訳)」(三好徹 著「高杉晋作」(人物文庫/学陽書房)あとがきより)


私が結婚する際に尊敬する上司から贈られた言葉を思い出す。
「出る杭は打たれる。出過ぎる杭は打たれない」


世の中には、ルールや規則(形式)を作り、それらを守らせることを生業にする行政組織/会社の管理部門があるが、社会の創造期/変革期には、そのような枠を超えて活躍する人物(天才)が必要とされる。


西郷隆盛もこう言った。
「どんなに方法や制度のことを論じようとも、それを動かす人がいなければ駄目である。まず人物、次が手段のはたらきである。人物こそ第一の宝であり、我々はみな人物になるよう心がけなくてはならない。」(内村鑑三 著/鈴木範久 訳「代表的日本人」(岩波文庫)より)

制度(形式)の前に、それを操る人物(天才)を育てなければならない。
現行の憲法を改正できず、形式論や解釈論に汲々とする我らが日本国民は、形式に埋もれた平凡人に成り下がったのか。

2011年5月4日水曜日

三島由紀夫の国家観


三島由紀夫氏の「若きサムライのために」(1996年/文春文庫)の中で、三島氏は国体について次のとおり語る。
『・・・つまり「日本民族を守れ」「日本国土を守れ」といふのは、ちよつとあぶないんぢやないか。といふのは、共産党だつて日本民族には違ひない。・・・体制を守れといふところに確信を持たなければ、これからの国土防衛の問題でもなんでもあぶないぢやないか。「ぢや、体制つて何ですか」「自由主義、民主主義」「それぢやだめだ」と僕は言つたんだ。日本人は絶対、民主主義のために死なん。・・・
 そこで出てくるのは、やつぱり国体の問題と天皇の問題ですよ。どうしても最終的に守るものは何かといふと、天皇の問題。それでもまだあぶない。カンボジアみたいに王制でだね、共産主義といふ国もあるんだからね。いまの共産党は、「天皇制打倒」を引つ込めてから十年以上たつが、ひよつとすると天皇制下の共産主義を考えてゐるんぢやないかと思ふ。これでもまだまだだめだ。天皇を守つてゐてもまだあぶない。
 さうすると何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思ふんだ。本質的な問題は。』
この発言は、昭和42(1967)年のものである。1970年の自決を経て40年超、氏の国家観は今もなお輝く。

2011年5月2日月曜日

エンジニア・研究者の良心

仕事柄、エンジニア・研究者と仕事をする。彼らの技術や論理への誠実さにはいつも敬服するばかりだ。このような「技術者の良心」は、日本人の民族的特性によく合っている。

TVで政治家のブレる発言ばかりを見聞きすると辟易とするが、絶望する必要はない。何故なら、戦後に築かれた日本の成功と名声は、良くも悪くも、このような名も無き技術者によるものだからだ。
これに、良質な政治を付加することで、真の「科学技術立国」として日本の再生は可能だと信じる。
 
そして、科学技術の重視は、上述のような「良心」を涵養することにもなり、人づくり・国づくりにもなると考える。

2011年4月23日土曜日

実るほど頭を垂れる稲穂かな(ことわざ)

「経験を積み成熟するほど、人間は謙虚たれ」という諺。
謙虚さを美徳とする名言/格言は世に多いが、この言葉には、瑞穂の国 日本ならではの美学が包含されており、秀逸である。

金を残して死ぬ者は下だ(後藤新平)


よく聞け、 
金を残して死ぬ者は下だ。 
仕事を残して死ぬ者は中だ。 
人を残して死ぬ者は上だ。 
よく覚えておけ
この後藤新平氏の名言と同氏の生き様から「清貧」の精神を見る。
同氏は、外務大臣等を歴任し、関東大震災の復興計画を立案するという辣腕を振るう大政治家であったが、読売新聞の経営再建のために自宅を抵当に入れてまで金を貸したりと、死後には借金が残ったという。無私の精神で世のため人のためになる活動をし、要すれば私財を投げ打つ覚悟を備えることを、武士道とは言わずに何とするか。
「清貧」という言葉は、美学に富んだ美しい言葉であるはずが、どうも世間では表面的に捉えられている。
この言葉は、現代の拝金主義/物質主義へのアンチテーゼでもあり、最近の「エコロジー」や「スローライフ」といった言葉の類義として、あくせくと働いて金儲けをせずに、シンプルで質素な生活を心がけ、精神的な豊かさを求める考え方とされている。しかし、それでは世捨て人(または引きこもり)の自己満足である。「自己中心主義」の観点からは、私腹を肥やす者たちと同類と言わざるを得ない。
世の中の発展のために没我の心境で行動すれば金に溺れることはないし、常住死身の覚悟を備えていれば自ずと生活様式もシンプルに洗練される。その先に真の「清貧」があるのだと思う。
最後に、清貧について綴られた太宰治の文章を紹介する。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2275_15068.html

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ(ビスマルク)

人間は失敗しながら成長するものであるが、その失敗の多くは先人が経験済みのものである。歴史は繰り返す。個人レベルの日常の些末な出来事ならばともかく、一国の将来に関わるような大きな決断をする時、決断する者は、自らの短くも小さな経験に頼ることなく、過去の人類の歴史を踏まえて判断しなければならない。

だからこそ、歴史観は、政治家に「最低限」必要な素養なのだ。
いや、これは政治家に限ったことではない。歴史に無知な者は、先達により連綿と作り上げられた歴史と伝統を軽視したり、過去を現代の判断基準で断罪するという愚を犯す。

こうして考えると、次の世代に日本の歴史を伝えることの重要性は論を待たない。学校教育だけに任せず、家族やコミュニティ、そして各種メディアが「正しく」伝えて行くことが肝要。